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ブログ:Onevoice

鈴木 一之 の投稿

連休明けの昨日(9月21日)、日経平均が3万円の大台を割り込みました。大騒ぎです。夜7時の報道番組ではそれをトップニュースで伝えたほどです。

株価の変動がお茶の間に、リビングに、キッチンに、生活の至るところ、とにかくどこにでも瞬時に飛び込んできます。それもほとんどの場合、値下がりしたケースです。株価が大きく上昇したことがニュースになることはごくまれです。悲劇はニュースになり、幸せな話題はニュースではありません。

立憲民主党が「アベノミクス」の政策効果を総括しています。株価の上昇に貢献しただけで、格差や貧困の問題の改善にはつながらなかった。むしろ格差を拡大させただけで、そのために日本はいまだに混迷から抜け出せていないとして、経済政策としては失敗だと断じています。

証券市場の末席に職を得ている私自身の立場としては、株価の上昇を促しただけでもよしとする部分はあります。しかし平均的な日本人のひとりとして、日本全体では何も変わっていない、まるでよくなっていないという批判の部分にもうなづけます。

増税もけっこうです。国の財政を立て直すため、将来世代に禍根を残さないため、あるいは年金の財源を確保するためであれば、増税も仕方ありません。受け入れます。

しかしここでの問題は、税金の使い道がまったくもってでたらめだという点です。社会のあらゆるシーンに歴然と残っている利権構造を残したまま、ただ増税だけを行っては何も変わりません。消費税の増税分がまるで社会保障費の補充に使われていません。それだけは勘弁してくれ、というのがこれまた平均的な日本人の率直な意見だと思います。

ひるがえって自民党総裁選。このような利権構造の象徴でもある「桜を見る会」、「森友学園問題」、「加計学園問題」への追及を今後も行ってゆくのか否か、各候補には態度をきちんと表明してもらいたいものです。

安倍政権を居抜きで継承した菅政権は一切の追及を行いませんでした。それが政権継承の条件だったのかもしれないとうがって考えてもしまいます。今後も「追及しない」という候補が勝つのであれば、日本の変化はさほど期待できません。株式市場は二極化相場をますます強めてゆくことでしょう。
(スズカズ)
世の中はグローバル時代です。世界中の動静がテレビ画面を通じて、リアルタイムで毎日のように飛び込んできます。昨年からのコロナウイルスの感染拡大によって、特に海外の情勢に気を配る機会が増えました。

このところ最も頻繁に目にする光景は、「9.11」から20年が経過したニューヨークのマンハッタンの様子、ハリケーン「アイダ」が通過したルイジアナ州の変わり果てた市街地、そして米軍が撤退してタリバンが全土を制圧したアフガニスタンです。

この夏は速度制限が時速30kmに制限されたパリの中心部の光景や、記録的な水害に見舞われたドイツ西部・ベルギーとの国境の風景もよく目にしました。

ニュース自体にも引き込まれますが、それにも増して興味深いのが、画面のすみっこの方に映り込むなにげない町なかの様子です。民家があり商店街があり、緑の街路樹もあって、公園の遊具も動いています。ごく普通の人々がなにげなく通り過ぎてゆく風景、毎日の人々の暮らしが思わず映し出されています。

ニュースが伝えようとしている本筋のストーリーとはまったく関係ないのですが、その国、その土地のごく平凡な一日の光景にニュースの深刻さを忘れてじっと見入ってしまいます。

暮らしぶりも食べ物も考え方も違う人々がここにも当たり前に暮らしていて、毎日を笑ったり怒ったりしながら過ごしています。普段は注目もされない場所に突如として大きな事件が発生して、そしてテレビクルーが乗り込んでカメラを回して、女性キャスターがマイクを向けてインタビューが始まります。

注目される部分と注目されない部分、うしろ側にただ偶然に映っただけの日常の風景なのですが、そういうものたちの方が雄弁に物事を語っていることがあるのが不思議です。

東京オリンピックでメダルを争うアスリートたちの戦いの場の、そのうしろ側で競技をスムーズに進行させているスタッフの立ち姿。そういうものに心が惹かれます。株式市場でもそれは同じで、3万円の大台に乗せた日経平均の寄与度上位(下位)の銘柄よりも、それらの背景に引っ込んでしまうような、隠れた存在の企業に思わず目が向いてしまいます。
(スズカズ)
菅総理が自民党総裁選に出馬を断念し、事実上の退陣を表明しました。このニュースをきっかけに株式市場は大きく上昇しています。TOPIXはバブル崩壊後の高値に至りました。

短期的な株価急騰には過熱感がついて回ります。テクニカル指標の中には早くも危険水域に接近しているシグナルを発信するものも現れています。ただ、テクニカル的な過熱感はいつもそうだとは言えませんが、これまで買えなかったものがいきなり買えるようになった時に出現しやすいものです。いわば市場の「サプライズ」を示す指標ともみなされるもので、それほどのサプライズだったということになります。

8年越しの国家イベントである東京パラリンピックが開催されている最中に、開催を決定した首相が退陣を表明するということのどの部分に、それほどのサプライズがあったのでしょうか。何が株価上昇をもたらしているのでしょう。

菅政権の1年を個人的に振り返って、最も記憶に残っている出来事は、就任早々に日本学術会議の人事に介入した件です。新会員6人の学者の人事を承認しなかった出来事でご記憶の方も多いことでしょう。以前著書を読んで感銘を受けた加藤陽子・東大教授が含まれていたので関心をもってながめていました。

人事への介入の事実そのものよりも、菅総理のその後の説明がいかにも紋切り型というか、木で鼻をくくったというか、新会員を承認しなかった理由をメディアがどんなに問いただしても、ただ「人事に関する件はこれ以上、お答えできません」と誰かが書いたペーパーをただ読み上げるだけで、まったく理由がわからなかったという経緯があります。

一国のリーダーが国民の信任である選挙もせずに党利党略だけで選ばれて、前任者の閣僚を居抜きで引き継いで、しかも書かれたものだけを読むいかにも官僚的な答弁。こんな調子がずっと続いたらひどいな、どうしようもないなと思っていたら、本当にそれが最後の最後まで続きました。三つ子の魂百まで、です。出だしにすべてが現れます。

日本の株式市場が世界の趨勢に割負けしていた事実は、2点あるのだと思います。ひとつは国難の時代のリーダー。もうひとつは医療提供体制です。このうちのひとつがいったん取り除かれました。そこに株価が反応しているように思えてきます。あともうひとつ。医学会、官僚、政界の鉄のトライアングル。それにも大きな変化の時が近づいているようです。
(スズカズ)
マーケットにたずさわる人間はだれしも、相場の先行きを当てることに必死です。当たった、当たらなかったという点は資産を運用するという観点から、あるいはマーケットにおいてその人の発言力を高める、信用を勝ち得るという点で非常に重要です。

起こりうる可能性を集め、先行きの筋道を立てて、それが起こりうる可能性を考えます。発表する時は本当に必死です。それでもあまり当たりません。神さまは人間に未来を見通す能力をお与えにならなかったのです。

私自身、「当たった、当たらなかった」という点で毎日喜んだり、落ち込んだりしています。落ち込むことの方が多いのが実情です。本当に未来の予想はむずかしいものです。

そこでできるだけ予想という部分を減らして、事実だけに着目するという手法に走ります。その企業が実際に提供している製品やサービスであったり、企業を構成している組織のメンバーであったり、市況関連企業であれば製品価格の動向であったり、予想や見通しの入り込む余地をできるだけ少なくしてゆく方向性を探します。

ひとりの人間のやることですから、事実だけに着目して世の中を見まわす方法にはどうしても限界があります。そういう時は他人の眼や耳に頼ります。新聞や雑誌には時間の許す限り目を通すことにしています。定期的に街の図書館に通って雑誌を読み込みます。

世の中のすべてを見る必要はありません。自分の好きなジャンル、得意な分野、興味のあるところだけにフォーカスして集中的に目を通します。書籍もよいのですが、機動性と関心の深さという点では雑誌が一番です。特に特定分野に特化した専門誌がいいですね。

ネットの勢力拡大に押されて雑誌の発行部数が減っていると聞きますが、それだけに今の世の中に残っている雑誌はやはり手ごたえがあります。今日から9月、読書の秋です。雑誌や新聞に埋もれる暮らしにずっとひたっていたいものです。
(スズカズ)
夏休みの読書、私は村上春樹の「1Q84」を読みました。

これもよい作品でした。文庫本で6分冊とかなり長い物語ですがぐいぐいと引き込まれて、あっという間に読み終えました。ふたりの主人公、天吾と青豆をめぐる不思議な世界。著者の持ち味である、まったく無関係に見えるふたつのストーリーが最後にはひとつに収れんしてゆく、なめらかな語り口が印象に残ります。

村上ワールドやこの作品の感想に触れたいのではありません。読んでいて文中に何度も出てくる1984年当時の日本の風景がとても懐かしく思い出されました。バブル以前の日本は確かにこうだったなあと、作品を読みながら何度も思い出していました。

80年代末に日本を襲ったバブル経済。不動産と株価が天井知らずのレベルに上昇して、そしてそれが破裂します。世界史に残るほどの上昇と、教科書に出てくるような恐ろしいまでの価格崩落。それ以後の日本は借金まみれとなり、返済不能、企業倒産、人員削減、リストラ、とこれまた絵にかいたような経済敗戦の戦後処理の歴史です。

金ピカの80年代に続くのは、後始末の90年代でした。「失われた10年」と呼ばれましたが、10年間では足りず不良債権処理は次の10年、2000年代に持ち越されます。「失われた20年」に伸びました。

それをすべて飛び越えた存在するのが1984年です。もちろん村上氏は、ジョージ・オーウェルのあの「一九八四年」をモチーフにして「1Q84」を書いたのでしょうが、それはそれとしてまったく別に、私はバブル以前の1984年を思い出しながらこの作品を読みました。

もし日本にバブル現象がなかったら今ごろはいったいどんな世の中になっていたでしょうか。ソニーとビクターが家庭用VTRの規格戦争を繰り広げていたころ。ホンダとヤマハが「ラッタッタ」を軸にミニバイク戦争を展開していた世界。カーメーカーが「セリカ」、「シルビア」、「スカイライン」、「プレリュード」、「サバンナ」、「スプリンター」などスタイリッシュな車種を次々と世に送り出して、若い男女がそれに群がった時代。

そのままの日本がずっと延長されていたとしたら、いったいどんな世の中になっていたのでしょうか。つくづくとバブル発生とその崩壊、「失われた20年」がうらめしくなってきます。「1Q84」の本筋とはまったく異なっているのですが、この夏の読書感想文を書くとしたら、私はひょっとしたらそのようなことをまとめたのではないかと考えました。
(スズカズ)